日経「星新一賞」の想い出(その2)からの続きです。
《応募要項》
私が最後に出席した実行委員会は、2013年4月16日と17日の2日間にわたる過密なものだった。この時点でまだ主催者が日経さんに本当に決まるのかどうか、わからないという状態だった。だが私たちは7月までには賞を起ち上げたいと思っており、この時期に細かなことを決定しなければもう間に合わない状態だったのだ。というのも星新一賞にはジュニア部門が設定されるため、できれば子供たちに、夏休み期間中に原稿を書いてほしい。高専ロボコンのように学校単位で応募してもらうという構想もあったから、実行委員会内で決めるべきことは決めておかなければならなかった。
星新一賞のロゴデザインなどといった細かなことも検討されたが、私が特に重要だと感じていたのは応募要項だった。文字数が1万字に決まった経緯は以前に書いたが、このミーティングで私が折れて1万字になった(私はせめて1万5千字と主張していた)。
次に「課題」である。文芸新人賞の応募要項には、必ずどのような作品を募集しているかが簡潔に書かれている。その概略は「公募ガイド」などにも載る。これをどうするか。日経「星新一賞」の公式ウェブページをご覧いただきたい。「あなたの理系的発想力を存分に発揮して読む人の心を刺激する物語を書いてください。」これが課題だ。この議論が長時間にわたった。鏡明さんや星マリナ氏からいろいろと案が出た。ただしここで星マリナ氏は、やはり星新一作品の亜流をほしがる発言をして、たとえば「笑える作品」という文言を入れようなどと、本質とずれた提案をしていた。そんなものは「課題」ではない。私は取り合わず、もうひとりの理系である田丸雅智さんの意見を求めた。星新一賞は発想力と洞察力を重視する〝理系文学〟の賞なのだから、理系出身者が課題を決めた方がよいと考えたのだ。
そして田丸さんが、じっくりと考えながらホワイトボードに書きつけたのが、上述の文章だった。
「存分に発揮して」という部分は必要なのか? という質問が出た。私は「いや、理系出身者はいままで文芸業界で抑圧されてきたw。この星新一賞だけでもいい、〝存分に〟力を発揮してもらおう。あなたたちの秘めたパワーはこの賞で受け止めてやる、そのくらいの訴えかけをしよう!」といった。文系出身の鏡さんは大受けして、課題はこれで決まった。だから〝存分に発揮して〟という文言には、私たちのそんな思いが込められている。
もうひとつ重要なのは「応募規定」だった。二重投稿はご遠慮下さい、プロアマ問わず、などは他の文学賞と同様だが、日経さんの出してきた規定案にはいろいろと不明瞭な点があった。
たとえば二次的著作権である。私が日本ホラー小説大賞を受賞したとき、「二次的著作権は主催者側に帰属する」という文言があったため、映画化やゲーム化にまつわる諸権利はいっさいもらえず、私のもとには賞金と本の印税しか入らなかった。そうした問題が1990年代からあちこちで出るようになり、ときに裁判沙汰になることもあって、日本推理作家協会は指針を発表したこともある。各社の皆さま、二次的著作権については「範囲」と「期間」を明示して下さい、というものだ。そうしないと未来永劫、二次的著作権は主催者側のものになってしまうからである。私はその指針のコピーを推協事務局から送っていただき、電通さんに示して、これが常識なのだからぜひ踏襲して下さいとお願いした。
後の話になるが、7月7日に日経「星新一賞」の公募が発表され、公式ウェブページができたとき、「応募に当たっての注意事項」欄の文言が、かなり応募者側にとって不利なものであったことに気づかれた方はいらっしゃるだろうか? あれだけ注意を喚起したにもかかわらず直っていないことに私は怒って、電通さんに連絡した。いまのは仮のもので、少しずつ直してゆく、という答だったが、納得はできなかった。しかし現在のものをご覧いただきたい。「その他の権利」の部分だ。契約の「範囲」と「期限」が明示されている。ちゃんと変更がなされたのだ。「二次利用に際しては、当該二次利用によって日本経済新聞社が受領した金銭のうちから、受賞作の著作者に対して二次的利用料が支払われます。」という文言も、当初はなかったと思う。少しは応募者側にとって安心できる内容に変わったのである。「アイデアの実現化」についてもマイルドなかたちになったのではないだろうか。
この2日間のミーティングで、私と星マリナ氏は日経の副社長やIHIの広報担当者らとも顔合わせをした。電通さんにお願いしてセッティングしていただいたのである。ただ、今後の具体的な話をするのだと私は思っていたが、どちらも当たり障りのない雑談に終始して、私は少し残念だった。
怒濤の2日間は終わり、あとは日経さんが正式に主催者を引き受けるのを待ちつつ、最終調整を進めるのみとなった。電通さんは忙しかったはずだが、もと日本SF作家クラブ会長としての私の役目は終わろうとしていた。ひとつ大いに落胆したのは、この段階に来ても、電通さんや星マリナ氏が受賞者のキャリアパスや受賞後のケアについて、何もアイデアを持っていないことだった。
《実行委員会と選考委員の辞退》
私が星マリナ氏と初めて会ったのは、2010年6月26日、世田谷文学館「星新一展」での記念講演会、「星新一を読むということ-<科学>と<文化>をめぐる旅」終了後に、控えの応接室で挨拶を交わしたときである。このときは新井素子会長や井上雅彦事務局長もいっしょで、日下三蔵さんなどもいた。
この控え室で、星マリナさんは「瀬名さんに星新一賞の選考委員をやってほしい」と笑顔で話しかけてきた。井上さんたちが「まだその話は内密ですよ」と慌てて止めようとしたことを憶えている。このとき日本SF作家クラブ「新人賞検討委員会」で、すでにSF新人短編賞としての「星新一賞」が練られていたわけである。そのときはYESともNOとも返事をしなかったが、後になって、ああ、あのときの発言は、ここへ繫がっていたのかと懐かしく思い出すようになった。
星マリナ氏は、ずっと私を選考委員に、という気持ちを持ち続けていた。私もそのことは知っていたから星新一賞の設立には協力し続けた。実際に賞が具体化し、理系出身の選考委員で固めるとなったときも、星マリナ氏は作家兼理系出身の代表としてまず私を推した。私は星マリナ氏の気持ちがわかっていたので快く承諾し、協力を続けた。
しかし星マリナ氏はやはり、〝星新一のような作品〟がほしかったのだと思う。「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」を起ち上げるとき、私や松原仁教授は「星新一のように面白いショートショートを人工知能につくらせるのが目標」と語ったが、ここでの「のように」は決して「星新一」にかかるのではなく、「〜のように面白い」という部分を強調している。だが星マリナ氏にそのことを説明してもよくわからなかったようだ。日経「星新一賞」の公式ウェブページにある星マリナ氏の挨拶文を見ても、実父である星新一を親鳥に喩え、そうした親鳥のような人を探したいといっている。当初に話し合ったはずの〝理系文学〟の精神は、ずっと鏡明さんと私が強く主張していたが、星マリナ氏の思いは少しずつずれていったように思える。
そのことを象徴する一件があった。あるとき、最終選考委員が理系出身者ばかりになると、難しい話ばかりが受賞してしまうのではないかと心配したのだろう、星マリナ氏は、自分のような文系が読んでもわかるかどうか、チェックしたいといい出した。つまり選考内容の検閲であり、選考者の仕事に遺族が介入する越権行為だ。作家の名前が冠についた賞はいくらでもあるが、遺族が選考内容にまで口出しするとは私物化しすぎだ。さすがに私も怒って、そんなことをいうなら自分も選考委員に入って意見を述べよといった。星マリナ氏は、そこまではやりたくないという。私は怒りを抑えながら、「では星マリナさんの意見を代弁してくれるような文系出身者をひとり司会進行役に立てよう。鏡明さんにその役目をやっていただくなら星マリナさんも納得するだろう」と提案した。実際、そのようになったはずだ。
やがて日経さんが正式に主催者になることが決まり、ようやく星新一賞は発進段階に入った。だがここで日経さんがいくつかの要請を出してきた。ひとつは、賞の正式名称を「日経「星新一賞」」にせよというものだった。これには電通さんもさすがにがっかりしたらしい。私も嫌だった。かっこわるいし、「日経」と名がつくと他の新聞社に取り上げてもらえなくなる可能性さえある。もうひとつは日経サイドからひとり選考委員を入れるというものだった。論説委員の滝順一さんに決まった。滝さんは「日経サイエンス」誌にコラムも持っている科学ジャーナリストであり、サイエンスコミュニケーションにも一家言ある人だ。ところが日経の内規によれば、自社の人間がウェブページなどで表に出るのは控えることになっているという。だから日経「星新一賞」の公式ウェブページにも、他の選考委員のコメントは載るのに、滝氏のコメントや写真は載せられないという。そんな馬鹿な話があるかと私は怒った。応募者は選考委員の顔を見て応募するのだ、この人に読んでもらいたいと願うから応募先を決めるのだ、それなのにコメントも載せられないとはどういうことかと。
結果的に、受賞作が決まった後、各選考委員はごく短い選評コメントを出し、その中には滝氏のコメントも含まれていた。少しは事態もよい方向へ変化したのかもしれない。
だが私は先にも書いたように疲弊しており、6月にはうつ病と診断された。それを受けて、私は星新一賞実行委員と選考委員の辞退を申し出た。電通メンバーのなかにはうつ病に理解を示して下さる方もおり、私は星新一賞実行委員を外れることができた。代わりに鏡明さんと小松左京事務所の乙部順子さんが実行委員会に入った。後に日経さんからもふたり、実行委員会に入ったと聞くが、どのような方々なのか私はまったく知らない。そもそも私が実行委員会にいたとき、副社長さん以外の日経の人とはいっさいお目にかかる機会がなかったのだ。
しかし選考委員は強く留意された。瀬名以外の理系出身作家の適任者を鏡明さんといっしょにいろいろ検討したが、どうしても見つからないという。星マリナ氏の気持ちもわかっていたから、そこだけは承諾し、そして2013年7月7日の告知日を迎えた。いろいろあったが、よい賞になることを期待していた。
私は相変わらず原稿が書けずにいた。実のところ、病気の原因のひとつは、星マリナ氏の「きまぐれ」に対応しようとするあまり精神的な負担があったからだと感じていた。あるとき、話の流れで、ついにそのことを星マリナ氏宛のメールに書いた。星マリナ氏も、自分が瀬名を追い込んだのだと思っている、申し訳ない気持ちだ、といった返信をよこした。
だが私はその後も『星新一すこしふしぎ傑作選』(集英社みらい文庫)の編纂でさらに疲弊したため、ビジネスパートナーとしての星マリナ氏は信頼できなくなった。二度と私に直接連絡しないでくれと申し渡し、星新一賞実行委員会の電通メンバーにもそのことを伝え、星マリナ氏には行き過ぎた行動を控えるよう伝えてくれとお願いした。
しかし2013年11月末になって、『星新一すこしふしぎ傑作選』の件で星マリナ氏はまた私に直接メールをよこしてきた。そこには「私からメールがくるとうつ病が悪くなると言われていたので連絡を控えていましたが、私が連絡しなくてもうつ病はよくなっていないようなので、メールしないでいることにあんまり意味がないのではないかと思い書いています。」と書かれていた。私はさすがに怒りを抑えきれず、星新一賞実行委員会の電通メンバー3名にメールし、今度また星マリナ氏から直接メールが来たら選考委員を降りると宣言した。
だが翌日、また星マリナ氏からメールが来た。これでアウトだと私は思った。選考委員を降りることを、私は星新一賞実行委員会に宣言した。
一晩経ったけれど、なんだかこれが書き終わらないと、別の原稿が書けない感じ。
あともう1回分書いて、想い出話は終わりにしましょう。希望を持った終わらせ方にしたいな。
《応募要項》
私が最後に出席した実行委員会は、2013年4月16日と17日の2日間にわたる過密なものだった。この時点でまだ主催者が日経さんに本当に決まるのかどうか、わからないという状態だった。だが私たちは7月までには賞を起ち上げたいと思っており、この時期に細かなことを決定しなければもう間に合わない状態だったのだ。というのも星新一賞にはジュニア部門が設定されるため、できれば子供たちに、夏休み期間中に原稿を書いてほしい。高専ロボコンのように学校単位で応募してもらうという構想もあったから、実行委員会内で決めるべきことは決めておかなければならなかった。
星新一賞のロゴデザインなどといった細かなことも検討されたが、私が特に重要だと感じていたのは応募要項だった。文字数が1万字に決まった経緯は以前に書いたが、このミーティングで私が折れて1万字になった(私はせめて1万5千字と主張していた)。
次に「課題」である。文芸新人賞の応募要項には、必ずどのような作品を募集しているかが簡潔に書かれている。その概略は「公募ガイド」などにも載る。これをどうするか。日経「星新一賞」の公式ウェブページをご覧いただきたい。「あなたの理系的発想力を存分に発揮して読む人の心を刺激する物語を書いてください。」これが課題だ。この議論が長時間にわたった。鏡明さんや星マリナ氏からいろいろと案が出た。ただしここで星マリナ氏は、やはり星新一作品の亜流をほしがる発言をして、たとえば「笑える作品」という文言を入れようなどと、本質とずれた提案をしていた。そんなものは「課題」ではない。私は取り合わず、もうひとりの理系である田丸雅智さんの意見を求めた。星新一賞は発想力と洞察力を重視する〝理系文学〟の賞なのだから、理系出身者が課題を決めた方がよいと考えたのだ。
そして田丸さんが、じっくりと考えながらホワイトボードに書きつけたのが、上述の文章だった。
「存分に発揮して」という部分は必要なのか? という質問が出た。私は「いや、理系出身者はいままで文芸業界で抑圧されてきたw。この星新一賞だけでもいい、〝存分に〟力を発揮してもらおう。あなたたちの秘めたパワーはこの賞で受け止めてやる、そのくらいの訴えかけをしよう!」といった。文系出身の鏡さんは大受けして、課題はこれで決まった。だから〝存分に発揮して〟という文言には、私たちのそんな思いが込められている。
もうひとつ重要なのは「応募規定」だった。二重投稿はご遠慮下さい、プロアマ問わず、などは他の文学賞と同様だが、日経さんの出してきた規定案にはいろいろと不明瞭な点があった。
たとえば二次的著作権である。私が日本ホラー小説大賞を受賞したとき、「二次的著作権は主催者側に帰属する」という文言があったため、映画化やゲーム化にまつわる諸権利はいっさいもらえず、私のもとには賞金と本の印税しか入らなかった。そうした問題が1990年代からあちこちで出るようになり、ときに裁判沙汰になることもあって、日本推理作家協会は指針を発表したこともある。各社の皆さま、二次的著作権については「範囲」と「期間」を明示して下さい、というものだ。そうしないと未来永劫、二次的著作権は主催者側のものになってしまうからである。私はその指針のコピーを推協事務局から送っていただき、電通さんに示して、これが常識なのだからぜひ踏襲して下さいとお願いした。
後の話になるが、7月7日に日経「星新一賞」の公募が発表され、公式ウェブページができたとき、「応募に当たっての注意事項」欄の文言が、かなり応募者側にとって不利なものであったことに気づかれた方はいらっしゃるだろうか? あれだけ注意を喚起したにもかかわらず直っていないことに私は怒って、電通さんに連絡した。いまのは仮のもので、少しずつ直してゆく、という答だったが、納得はできなかった。しかし現在のものをご覧いただきたい。「その他の権利」の部分だ。契約の「範囲」と「期限」が明示されている。ちゃんと変更がなされたのだ。「二次利用に際しては、当該二次利用によって日本経済新聞社が受領した金銭のうちから、受賞作の著作者に対して二次的利用料が支払われます。」という文言も、当初はなかったと思う。少しは応募者側にとって安心できる内容に変わったのである。「アイデアの実現化」についてもマイルドなかたちになったのではないだろうか。
この2日間のミーティングで、私と星マリナ氏は日経の副社長やIHIの広報担当者らとも顔合わせをした。電通さんにお願いしてセッティングしていただいたのである。ただ、今後の具体的な話をするのだと私は思っていたが、どちらも当たり障りのない雑談に終始して、私は少し残念だった。
怒濤の2日間は終わり、あとは日経さんが正式に主催者を引き受けるのを待ちつつ、最終調整を進めるのみとなった。電通さんは忙しかったはずだが、もと日本SF作家クラブ会長としての私の役目は終わろうとしていた。ひとつ大いに落胆したのは、この段階に来ても、電通さんや星マリナ氏が受賞者のキャリアパスや受賞後のケアについて、何もアイデアを持っていないことだった。
《実行委員会と選考委員の辞退》
私が星マリナ氏と初めて会ったのは、2010年6月26日、世田谷文学館「星新一展」での記念講演会、「星新一を読むということ-<科学>と<文化>をめぐる旅」終了後に、控えの応接室で挨拶を交わしたときである。このときは新井素子会長や井上雅彦事務局長もいっしょで、日下三蔵さんなどもいた。
この控え室で、星マリナさんは「瀬名さんに星新一賞の選考委員をやってほしい」と笑顔で話しかけてきた。井上さんたちが「まだその話は内密ですよ」と慌てて止めようとしたことを憶えている。このとき日本SF作家クラブ「新人賞検討委員会」で、すでにSF新人短編賞としての「星新一賞」が練られていたわけである。そのときはYESともNOとも返事をしなかったが、後になって、ああ、あのときの発言は、ここへ繫がっていたのかと懐かしく思い出すようになった。
星マリナ氏は、ずっと私を選考委員に、という気持ちを持ち続けていた。私もそのことは知っていたから星新一賞の設立には協力し続けた。実際に賞が具体化し、理系出身の選考委員で固めるとなったときも、星マリナ氏は作家兼理系出身の代表としてまず私を推した。私は星マリナ氏の気持ちがわかっていたので快く承諾し、協力を続けた。
しかし星マリナ氏はやはり、〝星新一のような作品〟がほしかったのだと思う。「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」を起ち上げるとき、私や松原仁教授は「星新一のように面白いショートショートを人工知能につくらせるのが目標」と語ったが、ここでの「のように」は決して「星新一」にかかるのではなく、「〜のように面白い」という部分を強調している。だが星マリナ氏にそのことを説明してもよくわからなかったようだ。日経「星新一賞」の公式ウェブページにある星マリナ氏の挨拶文を見ても、実父である星新一を親鳥に喩え、そうした親鳥のような人を探したいといっている。当初に話し合ったはずの〝理系文学〟の精神は、ずっと鏡明さんと私が強く主張していたが、星マリナ氏の思いは少しずつずれていったように思える。
そのことを象徴する一件があった。あるとき、最終選考委員が理系出身者ばかりになると、難しい話ばかりが受賞してしまうのではないかと心配したのだろう、星マリナ氏は、自分のような文系が読んでもわかるかどうか、チェックしたいといい出した。つまり選考内容の検閲であり、選考者の仕事に遺族が介入する越権行為だ。作家の名前が冠についた賞はいくらでもあるが、遺族が選考内容にまで口出しするとは私物化しすぎだ。さすがに私も怒って、そんなことをいうなら自分も選考委員に入って意見を述べよといった。星マリナ氏は、そこまではやりたくないという。私は怒りを抑えながら、「では星マリナさんの意見を代弁してくれるような文系出身者をひとり司会進行役に立てよう。鏡明さんにその役目をやっていただくなら星マリナさんも納得するだろう」と提案した。実際、そのようになったはずだ。
やがて日経さんが正式に主催者になることが決まり、ようやく星新一賞は発進段階に入った。だがここで日経さんがいくつかの要請を出してきた。ひとつは、賞の正式名称を「日経「星新一賞」」にせよというものだった。これには電通さんもさすがにがっかりしたらしい。私も嫌だった。かっこわるいし、「日経」と名がつくと他の新聞社に取り上げてもらえなくなる可能性さえある。もうひとつは日経サイドからひとり選考委員を入れるというものだった。論説委員の滝順一さんに決まった。滝さんは「日経サイエンス」誌にコラムも持っている科学ジャーナリストであり、サイエンスコミュニケーションにも一家言ある人だ。ところが日経の内規によれば、自社の人間がウェブページなどで表に出るのは控えることになっているという。だから日経「星新一賞」の公式ウェブページにも、他の選考委員のコメントは載るのに、滝氏のコメントや写真は載せられないという。そんな馬鹿な話があるかと私は怒った。応募者は選考委員の顔を見て応募するのだ、この人に読んでもらいたいと願うから応募先を決めるのだ、それなのにコメントも載せられないとはどういうことかと。
結果的に、受賞作が決まった後、各選考委員はごく短い選評コメントを出し、その中には滝氏のコメントも含まれていた。少しは事態もよい方向へ変化したのかもしれない。
だが私は先にも書いたように疲弊しており、6月にはうつ病と診断された。それを受けて、私は星新一賞実行委員と選考委員の辞退を申し出た。電通メンバーのなかにはうつ病に理解を示して下さる方もおり、私は星新一賞実行委員を外れることができた。代わりに鏡明さんと小松左京事務所の乙部順子さんが実行委員会に入った。後に日経さんからもふたり、実行委員会に入ったと聞くが、どのような方々なのか私はまったく知らない。そもそも私が実行委員会にいたとき、副社長さん以外の日経の人とはいっさいお目にかかる機会がなかったのだ。
しかし選考委員は強く留意された。瀬名以外の理系出身作家の適任者を鏡明さんといっしょにいろいろ検討したが、どうしても見つからないという。星マリナ氏の気持ちもわかっていたから、そこだけは承諾し、そして2013年7月7日の告知日を迎えた。いろいろあったが、よい賞になることを期待していた。
私は相変わらず原稿が書けずにいた。実のところ、病気の原因のひとつは、星マリナ氏の「きまぐれ」に対応しようとするあまり精神的な負担があったからだと感じていた。あるとき、話の流れで、ついにそのことを星マリナ氏宛のメールに書いた。星マリナ氏も、自分が瀬名を追い込んだのだと思っている、申し訳ない気持ちだ、といった返信をよこした。
だが私はその後も『星新一すこしふしぎ傑作選』(集英社みらい文庫)の編纂でさらに疲弊したため、ビジネスパートナーとしての星マリナ氏は信頼できなくなった。二度と私に直接連絡しないでくれと申し渡し、星新一賞実行委員会の電通メンバーにもそのことを伝え、星マリナ氏には行き過ぎた行動を控えるよう伝えてくれとお願いした。
しかし2013年11月末になって、『星新一すこしふしぎ傑作選』の件で星マリナ氏はまた私に直接メールをよこしてきた。そこには「私からメールがくるとうつ病が悪くなると言われていたので連絡を控えていましたが、私が連絡しなくてもうつ病はよくなっていないようなので、メールしないでいることにあんまり意味がないのではないかと思い書いています。」と書かれていた。私はさすがに怒りを抑えきれず、星新一賞実行委員会の電通メンバー3名にメールし、今度また星マリナ氏から直接メールが来たら選考委員を降りると宣言した。
だが翌日、また星マリナ氏からメールが来た。これでアウトだと私は思った。選考委員を降りることを、私は星新一賞実行委員会に宣言した。
一晩経ったけれど、なんだかこれが書き終わらないと、別の原稿が書けない感じ。
あともう1回分書いて、想い出話は終わりにしましょう。希望を持った終わらせ方にしたいな。